あたくし小説

30代ママ、しぃの日々の諸々を書き残す「私小説」。不妊治療・子育て・映画・洋ドラ・キャリアアップ・ヲタ文化等々、好きなものを好きな時に発信中。

チビを授かるまでの不妊治療について①

さて、予定日記念(?)に、チビを授かるまでの軌跡を振り返りたいと思います。
この経験から学んだことを自分たちよりも下の世代に教えておきたいという気持ちもあります。おこがましいかもしれないですが、それくらい「これからの若者は、ちゃんと分かってないとやばい」と思える経験だったのです。しばしお付き合いください。

あたくしども夫婦が結婚したのは2012年。今から5年前でした。当時、二人ともギリギリ20代。
で、2017年現在で第1子を授かっているわけなので、結婚から妊娠まで5年をかけていることになります。

夫婦2人だけで過ごす期間がどれくらいだったかに関しては、様々な考え方・事情があるであろう非常にプライベートなことなので、同じ状況だったとしても一概には言えないと思いますが、とりあえずうちの場合。
まず自然にしていても授からない時期が2年くらいあったというところから始まりました。ただですね、その頃はまだお互いの仕事の都合もあり「まだできなくてもいいや」くらいにしか考えていませんでした。ただこれが3年目に突入となるとさすがに焦って来たわけです。気づけばもう、当時日本産婦人科学会が定めていた不妊の定義に当てはまっていたんですよ。

ちなみに、今は不妊の定義にさらに変更が加えられ、以下のようになったようです。

不妊(症) infertility, (sterility)
生殖年齢の男女が妊娠を希望し,ある一定期間,避妊することなく通常の性交を継続的に行っているにもかかわらず、妊娠の成立をみない場合を不妊という.その一定期間については1年というのが一般的である.なお,妊娠のために医学的介入が必要な場合は期間を問わない.」

公益社団法人 日本産科婦人科学会不妊の定義の変更について」よりー

で、私がまずは行動開始。夫に話してはいましたが、まず初動は私一人で行いました。

行動その① 近場の婦人科で基礎体温を見てもらいつつ、タイミング指導
この時は、病院も近場の婦人科(産婦人科ではなく、不妊治療の専門院でもない)を選びましたし、やってたことも定期的に基礎体温表見せにいくだけだったので、まだ本気度が低かったですね。…で、この本気度の低い行動をタラ〜っと1年近く続けましたが、妊娠しなかった。堪り兼ね、病院を変えることにしました。

 

行動その② 世話になる病院を産婦人科に変える。ここで不妊の原因発覚。
行き先を「産婦人科」にステップアップさせ、相談しました。で、基礎体温は相変わらず見せてタイミングを取りつつも、まずは私が本格的な検査を受けることとなったわけです。ですが、いくつかの検査を経ても私に問題は見つからない。

ここで、夫の検査を勧められました。幸いにも夫がすぐ同意してくれたので、精子の検査に踏み切ったのです。で、これで原因がわかりました。
精子無力症という診断を受けたのです。
これは「精液の中に精子の数は充分いるのだけれども、運動率が悪い。よって、卵まで辿り着ける可能性が低くなる」という症状を指すのだそうで、男性不妊の原因の一つとされているものです。ただ「精子の数が少ないとか全くいないとかいう症状に比べればそう悲観したものではないし、運動率はその時その時でかなり変動がある」とも言われました。夫にとっては少なからずショックだったのでしょうが、私としては「これで原因がわかった。それなら対策が取れる」と、光明が見えた瞬間でもあったのです(夫よ、すまぬ)。

で、勧められたのが人工授精です。これで確率を上げよう!という作戦に出ました。私はこの時点で、職場の直属の上司やごく身近な方々に、不妊治療で病院通いをし始めたという話を打ち明けました。不妊治療というのは、原因がどちらにあったにせよ、病院に通うのは女性の方がメインになります。しかも身体のリズムに合わせなければならないため、通院の日や時間帯は自由に選べないのです。
間違いなく仕事に影響を与える、誰かに迷惑をかける、と予測できましたので、必要な範囲内で自分からある程度の説明をしてしまったわけです。これは今でも正解だったと思っています。有難いことに、皆さん理解を示して下さいました。
で、その病院で3回目の人工授精をやった時…だったか。成功し、妊娠検査薬に陽性反応が出たのです!小躍りしましたね。で、この時、職場の人事に関する動きが出てくる時期だったため、ちょっと早すぎるとは思いながらも、皆さんに報告しました。7週目になるかならないかの頃だったかと思います。

ところが、そのチビちゃんは8週目で稽留流産との診断を受けました。
どれほど嘆いたことか。今でもその最初のチビちゃんのことを考えると涙が出てくるほどに辛い経験でした。

「この週数で流れるのは自然淘汰だから、どうすることもできなかった」「これで妊娠はできる身体だと分かったんだから」「一度できれば癖になるっていうし」「忘れ物を取りに行っただけだからまたすぐ帰ってきてくれる」「あなたはまだ若いんだし」等々、色々な方々からありとあらゆる励ましを貰いました。でも、申し訳ないながら、あの時はどれも私には響かなかったです。どれだけ次への指針を示してもらえたところで、亡くなってしまった子は帰ってこないんですから。正直、夫にすらこの気持ちは理解できないのではないかとさえ思いました。

もうこの頃になれば、既婚の友人たちは2人目や3人目を出産している子もいました。それを心からお祝いしてあげることができず、ただただ僻むことも増えました。子どもができるなんて自然の摂理のはず、それなのに何故私は、医者の力を借りてお金で買いに行くような真似をしなければいけないのか、と。だいたい、私に原因はない。原因は夫にある。それなら、この人を選んだのが失敗だったのではないか、とまで思い詰めるようになりました。ギリギリのところでそれを夫の前で口に出すのは避けられましたが、もし口に出していたら確実に離婚だったのではないかと思います。

行動その③  転院。不妊治療の専門院へ
ここで、また病院を変えることにしました。私が小さい頃からお世話になっているちょっと年上のお姉さんが、新規開院した不妊治療の専門院の事務方で働き始めたと聞き、その病院に行ってみることにしたのです。
で、そこで再度、私の検査を行い、まだ調べきれていない項目で異常はないかをチェック。結果、私に異常はなし。重ねて、夫の検査も行いました。そして、やっぱりというか「精子の運動率が悪い」という結果が出るのです。この病院でも、まずは人工授精を勧められました。ただ、前の病院でやってきた回数もカウントすれば、「確率的にそろそろ打ち止めの時期かもしれない。うちで2〜3回やっても結果が出ないようだったら、体外受精にステップアップすることも視野に入れた方がいい」という指導を最初から受けました。これは仕方ないのかな…と思ったのでさほどショックではなかったです。それどころか、やはり専門院は先の見通しを持ってやってくれるものだ、もっと早くこちらに来ていればよかった、と思いました。不妊専門院だと待合に妊産婦さんがいないので、行くときも気持ち的にはかなり楽でしたね。

で、こちらでも人工授精からスタートしたわけですが、専門院なだけあって、前の病院よりも明らかに高度なシステムだったと思います。その代わり、治療費は上がりましたが。まあ、こればかりは仕方ないかと。

こちらでは3回人工授精を行いました。で、3回目の時には「これで打ち止め。次は体外受精にしよう」と思っていました。しかもこの時は先生に、「あー、今回旦那さんの数値、これまでで一番悪いねえ」と言われるし、私は私で仕事の都合上、一番いいタイミングで病院に行けなかったしで、消化試合のようにしか思ってなかったのですが、この消化試合でまさかの妊娠という結果になったのです。で、有難いことに妊娠継続でき、今に至ります。
消化試合扱いしていた以外にもまだ色々と逸話はあるんですが、それはまた別の記事で。

ちょっと長くなって来ましたので、続きはまた第2弾で書きます!